何とは言わないが今年は個人的な節目なので、現状どんなことを考えて生きているのかまず書き残しておく。未来の自分に向けて、かもしれない。
最初に言いたいのは、私は今楽しいよってこと。良いことは何もないけど、悪いことだって何もない。マイナスに比べたゼロの状態は、最高に快適だ。まあ、プラスの人のことは正直に羨ましい。だけど、羨ましく思うのと、だからって自分を減点すべきであると思うのは、違う。それを今の私は知ってる。
以上を踏まえて。
今、人生についてはこんな風に考えている。
人生は幸せな方が良い。かなり雑だけど、これは自明の前提とする。でも幸せになるためには、幸せを見つけたり、そもそも探したりするための能力が必要だった。それは、幸せとは何なのかっていう知識ではなくて、思考の必要のないもっと身体的な、磁石みたいなもの。
幸せの磁石は、きっと誰でもその素を持って生まれてくるのだけど、私たちが記憶も残さないほど小さな頃に、記憶に残らないほど小さな出来事の積み重ねによって、正常な機能を有して成長するかはたまた異常を来して消滅してしまうのか、早々に岐路に立たされる。異常を来す要因は、逆境的小児期体験と呼ばれるようなもの。家庭で肉親から受けたものに限らず、学校で教師や同級生から受けたものなんかも含む。そしてその分岐は、生涯覆ることがない。箱に入れて四角く育てたスイカを、収穫期になってから球形に戻せますか?って話。
正常に機能したら、幸せを引っ張る力が宿る。幸せの見た目、匂い、手触り、いつどこにあるのか、そういうのを想像することができる。そして、それが心地良いものであることを直感的に知ってるから、能動的に探して見つけ出して、手に入れることができる。異常を来したら、それらがわからない。
ただそれだけなんだと思う。知ってるものは見つけられるけど、知らないものは存在していても見えない。Hidden Cityでさ、知らない物品の名前が出てきて、翻訳チームよぉと思いながら一時停止してググりに行ったよね。高校の現代文で、日本には朝方の時間帯を切り分ける表現が大量にあるって話から、同じものを経験していても、それを切り分ける言葉をいくつ持ってるかによって認識の深さに違いが生まれるんだって習ったよね。旅行先でどのくらい観光を楽しめるかは、その土地の地理や歴史を知ってる程度で変わってくるよね。それから、いつだかTwitterで、海外の貧しい子供たちを救おうと行動する有志の学生が隣の席の同級生の貧困には気づけない、なんて議論も起こったよね。
幸せがわかるのは、この世界に生きる価値があると思えるのと同義だ。だって人生は幸せな方が良いから。
私には、幸せの磁石がない。幼少期に磁石の素が消滅したようだ。だから、どこに幸せがあって、どんな風に手に入れたら良くて、どうしたら周りの人々とそれを分かち合えるのか、全くわからない。この世界に生きる価値があるのかどうか、今までもわからなかった。これからも、わかる日は一生来まい。それはやっぱりとても残念で、叶うことなら幸せの磁石を持った人生を味わってみたかった。
偽物というか水物の幸せなら味わったことがあるけど、あれはまだ誰もが平等に幸せになれると思っていて、なのに自分は何をしても上滑り感が拭えなくて、そのズレが人生の道しるべを致命的に破壊して、生きるのが怖くて怖くて堪らなかったときに、たまたま傍にいてくれた他人が道案内をしてくれると誤解した安心感の幻覚、麻薬のような快楽だった。相手にとっちゃ、外面は真人間なのに蓋を開けてみればとんでもない地雷だったわけで、初見殺しも良いとこだったろう。
小さな子供の身体をハンマーでぼこぼこにしたら、その後の発育に悪影響が及ぶことは誰でも想像できるけども、心をぼこぼこにしたところでその傷は目に見えないからタチが悪い。心ぼこぼこ人間は生来の人格の良い部分を出せないので、まずこうして人間関係を破壊した経験があると思うんだけど、あまつさえ刻み込まれた恐怖のせいで意図せず周囲と馴染まない言動を取るようになったりして、悪目立ちしてしまう。そうして自ら新たな逆境を生んでしまうから、失敗体験しか得られない。負の循環。それでますます、幸せがわからなくなる。
それどころか、負の循環へあまりに長い期間放り込まれてると、幸せの磁石がひっくり返って逆に不幸の磁石と化して、すくすく育っちゃうことがあるのだ。不幸の磁石を持ってしまうと、不思議なことに、自ら不幸になりに行く。磁石に拒否権はないから、単に引っ張り合ってるだけなんだけど。
幸せがわかる人は、生きることは幸せだって知ってるから、当たり前だと思ってることを自覚すらしないくらい当たり前に幸せの中にいて、幸せを連鎖させてく。幸せがわからない人は、生きることに価値がないかもしれないのを知ってるから、価値がないと思わされる出来事を認識からシャットアウトできない。「無視して自分の幸福を追求すれば良いじゃん」って思考ができない。だって、ずっとそこにあるじゃないか。私が無視したところで。
どっちの人も、それぞれの真実を知っている。そしてそれぞれの真実を補強するための証拠探しをしてしまう。否、させられてしまうのかも。脳みその自動的な機能によって、望むと望まざるとに関わらず。そうした証拠探しの末に、世界はこういうものだっていう輪郭が見えてきて、一人一人の世界観ができ上がるんだと思う。この世界は素敵な所。この世界は怖い所。
「この世は思った通りになるようにできてる」って考え方が昔からあるけど(漫画『ONE PIECE』32巻の見返しで有名だけど、概念自体は間違いなく尾田さん発祥じゃない)、正しくは「我々は自分の世界観の中だけで展開する人生を無意識に選び取ってしまう」じゃないのかな。これだとしっくり来る。だって、誰だって最初から「この世は思った通りにならない」なんて思いたかったはずないもの。何かが、挫いたんだよ。誰もが生来持ち合わせてた、世界への純粋な信頼を。
だけど、じゃあ私はどうするんだ? 逆境となったあらゆる要因を恨んで、恨んで、恨み倒して、怨恨の中で一生を過ごすのか? 禁欲的で格好良いよね。でも、私の歳の平均余命は60年くらいある。一途に極める根気はないな。飽きちゃうな。
そもそも、そう、それらは文字通り「要因」に過ぎないのだ。いくつかの要素が重なって、原因となったもの。要因の一つ一つに、また、それらを要因たらしめた要因がある。要因の要因。そしてそのまた要因もある。キリがない。こうなったらもはや誰がラスボスなのでもない。自分の観測できる範囲内だけの誰かを責め立てるなんて、ずいぶん対症療法的だ。憂さ晴らしにはなるかもしれないけど。
みーーーんな、誰かに振り回されてる。幸せがわかる人生になるかわからない人生になるか、自分で決めることはできない。なのに、それが自分の世界観の始まりになってしまう。そんな風にでき上がった世界観なんか、自分で作ったとはとても言えない。結果的にできただけ。もっと言うと、刷り込まれただけ。与えられた思考の中で踊らされてるだけ。
その世界観から抜け出すことのできる人も、いるにはいるだろう。私の場合だって、そんな大層な話じゃないけど、自分の認識が歪んでることを自覚したからこそ、こうして客観的な考え方もできるようになったのだし。だけど、いろんな人を傷つけて、取り返しがつかなくなってから、悔やみ抜いて、何年も何年も情報収集と自己分析に費やしたあとでの話。それに、ここに至るまでに、人の優しさと正確な情報に触れる機会があったから達成できたこと。運が良かったに過ぎない。そんな再現性のないもの、他人に求められない。
最大の復讐は幸せになること!なんて言いたいんじゃないよ。この手のキレイゴトは大嫌い。でも、現状、何も思いつかないのだ。真に恨むべき相手も、幸せの磁石の治し方も。
みんながみんな、たまたま生まれついた環境の中で、勝手に人生が作られてるだけ。道端で掃き掃除してくれてる人、コンビニのレジの人、建築作業の休憩時間に地べたでお弁当食べてる人、YouTubeで科学実験の面白動画を配信してる人、きみの好きなあのクリエイターの人、みんなみんな。例外なく。みんなそれぞれ、各自の幸せの磁石を持ってて、それが良かれ悪しかれ何らか機能していて、人生幸せだったりそうでなかったりするのだ。こうして考え始めると、人生って何だろう、意思って何だろう努力って何だろう、幸せって――そして幸せの磁石を得られる得られないが運の良し悪しだけで決まるのって、何なんだろう、ってわけわかんなくなってくる。グロテスクだと感じる。
結局、私はどうすべきなのかわからない。ミクロでわかんないなら、マクロでどうにかすれば良いのか? 幼児期の公教育の完全無償化・機会の平等化を主とした拡充、ですかね!? 政治家になれば良いのか。ますますわからない。とりあえず、自分に幸せの磁石がないことを理解しただけで100点だと思ってる。他者への依存程度は、今後予防できるだろう。この理不尽をほいほい引き受ける気にもなれないけど。
残念ながら何の救済も結論もない。冒頭書いたとおり、そしてこのブログの名前のとおり、今考えていることを記録しただけ。
でも、同じく冒頭書いたように、私は今楽しい。好きなコンテンツに毎日触れている。大切で信頼できる人達もできた。自分のことは全体として好き。身についた知識や技術もたくさんある。本当はね、こういうのをいちいち並べ立てなくてもこの世には生きる価値があるよってのが幸せの磁石なんだけど、私はそれを持ち合わせてない分、手探りでこの世の良いところを探し出すハメに――もとい、機会が与えられたので、具体的な理由を挙げることができるのだ。生きる価値があるとは言えないけど、当面死ぬ気は失せた。何より、自分を知ることで、根本的に幸せになれない絶望と併せて、楽しいことは楽しんで良いんだな、なんて幼稚園児が発見するような希望も湧いている。
以下は余談。わかる人にはわかると思う、こういう思考を持つ人間とニコニコ動画の親和性は高い。ここまで自分のことをわかっていなくてまさに迷子真っ最中だった頃、毎日ニコ動見てたんだけど、2014年にhalyosyさんっていうボカロPが『Blessing』って曲を作って、それを有名な歌い手始めいろいろな人がみんなで合唱するコラボ動画が上がったんだよね。リンク先は原曲↓
これはもともとやってた「ニコニコラボ」って企画の一環だそうで、私はそれを知らずにゲーム実況者のキヨが好きなので「えっキヨ入ってんの?」って興味本位で視聴しに行ったんだけど、歌自体が良すぎて心が浄化された……。キヨは平常運転で面白かった……。当時この歌に救われてて、それから何年も経ってだんだんと聞きに行く頻度が落ち着いてったんだけど、数ヶ月前に始めたボカロの音ゲーに収録されてて感謝が蘇った。
自分の手に負えない人生だからこそ、うまくいかなくたって何もできなくたって、生きてるだけで祝福し合いたいよね。みんなに幸せであってほしいのに、私は幸せの磁石を配れる立場にない。祈るしかない。この曲はそういう、もうみんなの幸せを祈るしかないじゃん……っていう無力感と諦めの悪さに寄り添ってちょっとだけ明るい気分にしてくれる。フレーフレー、って言いたいよね。世界に。
この曲、その後有志(←ブロマガのサ終で読めなくなるかも)がUSA for Africaの国際版みたいなものを作ってくれてまあエモいので、こっちも語り継がれてほしい。みんな幸せになってほしいね。