幼少期、家庭ではほぼ毎日両親の夫婦喧嘩が起こっていた。ほんとは生まれる前からだし、今もたまに、なんだけど、幼少期の家庭での安心感の欠如ってのは人格形成に多大な悪影響を及ぼすものだから特選です。幼少期の子供を世話してる親だからこそストレスで喧嘩しやすい、ていう最悪の相関もあるしね。現代ではこうした状況に、心理的虐待やら逆境的小児期体験やらマルトリートメントやら、便利な名前がついてくれた。これらを原因として認知の歪みが生じた当事者を、広くアダルトチルドレンと呼んでくれたりとか。研究者、大感謝(押韻)そういう家庭で20年弱育ち、そういう名前で括って然るべき家庭だったのだ、自分の体質ならぬ脳質とでもいうべきか、それはよりにもよって自分自身にとり息苦しい方向にひん曲がってしまっているのだ、と20代前半でやっと気づいて、そこからどうにか生きよう、いややっぱ死のう、いや生きてみる?いや死にてえわ、と何年もずっと管巻いているのが現在。周りにも何人か家庭で安らぎを感じられずに育った友人がいる。彼らとこうした雑談をするとき、「非・当事者」のことを「健常者」と呼んでいる。正しくは神経学的定型と表現すべきなのだろうが、雑談する上で便利なので……。ということで、この記事における健常者とは非・機能不全家庭サバイバーのことと定義します。
家庭で安らぎを感じられずに育った人間は、――って巨大主語にして良いか? 良くないか。その中の一人としての個人的経験からお話しすると、アダルトチルドレンを自覚する前は、恐怖心から言動を出力するだけの、知性のない動物だった。専門知識はないので全て後付けの推測になるが、地方の小規模な学校に通っていた小学生時代は、家庭で父親がモノにもヒトにも八つ当たりをしていたのを「思い通りに事を動かすためには強権的でなければならない」とでも解釈したか、周囲に高圧的で攻撃的だった。そんなお山の大将状態も、中学に入るとクラスの人数が増えたり、部活での上下関係が明確になったりしたことで続かなくなった。代わり、母親がずっと父親の愚痴を聞かせ続けていたのを「意思疎通とは共通の敵を持ち裏で批判することである」とでも解釈したか、どこかの“グループ”に所属するため、本当は仲良くなりたかった同級生についても、“グループ”のメンバーに同調して陰口を叩いた。高校では、入試を経たために勉強に対する志向という点を中心に生徒の性格が均質化したこと、かつ地元を越えた様々な地域から生徒が集まったために生い立ちの面では多様化したことで、周囲は非常に穏やかだった。そのお陰か単なる高校生特有の黒歴史隠蔽欲求かわからないが、大人しく過ごすよう努めるのが正解であるようだという推測まで辿り着いたものの、仲良くなった相手であればあるほど油断して、幼少期に身についてしまった攻撃性を浴びせ、恩を仇で返した。大学ではそれが拡張されたような感じで、決定的に人を傷つけたり迷惑行為を働いたりして、人間関係を修復不可能なまでに破壊した。そもそも最初からまともに構築できなかったので、破壊という表現は正確でないのだけど。ここまで周囲に酷いことをすると、罪悪感から解放されて楽になりたいからというあくまでも利己的な理由で反省せざるを得なくなり、長い長い自己分析の結果やっと愛着障害者であることを自覚した。知性のない動物であることを自覚した。
ここから、人間の新生児になった。20余歳の赤ん坊だ。ちょうど会社員生活の始まりだったこともあり、最低だった。外からは当然肉体年齢相応の扱いをされるのに、中身は喃語も発せない0歳児なのだから。まず模倣するしかなかった。人前で愚痴や陰口を言ってはいけない。基本的に笑顔で黙って頷いていれば誰かを傷つけることはない。人の良いところを褒めると良い。嬉しい、楽しい、ありがとう、などは積極的に言う。ここ、自分の本心とは切り分けて考えるのがコツ。ただ出力パターンとして登録するのだ。迷惑を掛けることはないから。少しずつ健常者の言語を覚えていった。3年程経ったら、小学生くらいになった。基本的な生活習慣を一通り自力で達成できる段階。意識しなくても発声の前に内容を精査する習慣がついた。一方で、自我が芽生えたような感じになった。健常者は一体何が嬉しいんだろう。何が楽しいんだろう。さすがにヴァイオレット・エヴァーガーデン的状況だったわけじゃないので、それまでも嬉しかったり楽しかったりすることはもちろんたくさんあった。だけど、健常者のそれらと自分のものとは質が違う気がする。そして学んだ。彼らは自分だけが特別に楽しませてもらっているときじゃなくても、みんなと一緒に楽しさを感じることができる。自分でなく他人に良いことがあったときでも、我が事のように嬉しさを感じることができる。それは、〈家族や恋人からのように確実に自分だけが指名されて祝福され、はっきり「あなたのことを考えていますよ」と明示される場面〉ではないときでも、その場にいて良いと思えているからだ。その場にいて良いというのは、誰もあなたを嫌っていない。誰もあなたを責めていない。誰もあなたを軽蔑していない。警戒する必要はない。だから恐怖心なんか抱きようがない。そういう自信と安心のこと。その場にいて良いと思えていることなんか、彼らにとっては空気のように当たり前すぎて、それどころか心身そのものであるせいで、きっとわかっちゃいないだろう。翻って、自分はまず好かれることはない、何か理由がない限り基本的に嫌われていると、自分のやることなすことは誰かが確認して承認されるまで、責められるべき誤りであり得ると、自分は見下され惨めだと思われ、またはそもそも認知されていないのだと、こういう恐怖と警戒が根幹をなしているのが私である。こちらもこちらで、しっかり自己分析をするまではこの自罰思考が空気のように当たり前すぎて、それどころか心身そのものであったせいで、全くわかっちゃいなかった。つまるところ、多少の知性はついたものの、自分の言動が恐怖心から出力されていたことにはここに至るまで気づいていなかったのだった。この発見を小学校卒業あたりに位置付けている。
今、中学生だ。健常者との付き合いとしては主に3種類ある。1. 学生時代から遊んでくれている貴重な貴重な友人達。彼らは結婚し出産を控えるようになったので、そろそろ付き合いが消滅すると思うけれど、ここまでよくもまあこんな扱いづらい奴を食事や旅行に誘ってくれた。2. 会社。会社に関してはこの記事での議題とは全然関係ない理由から、むしろこちらから付き合いを忌避して最小限に絞っているのだけど、業務上のかかわりだけで健常者の立ち居振る舞いを知ることはできる。良くも悪くも。3. 趣味のコミュニティ。所属しているものが2つある。これはどちらも精神が中学生になってから参加したものなので、要は関わる人々は私の人生の大半が知性のない時代であった事実を知らない。ちょうどこの3つそれぞれからそれぞれに学ぶことがあり、もうまだ中学生ながらも愛着障害者としては一応の結論に至りつつある。
1から。健常者にとっては、基本的に生きることは良いことである。幸せ磁石を持ってるから。この世は愛で溢れてるからさ。お父さんとお母さんが愛し合ってて、お父さんとお母さんが私を愛してくれて、私もお父さんとお母さんが大好きで、だから友達とも好き合うことができて、そのうち特別な愛を送り合う相手ができる。たまには破局するけど、それでも根本的な世界は愛でできてるから、次はもっともっと特別な相手と出会える。良きところで身を固める。みんな大好き。そりゃ生まれてきて良かった。死にたいなんて思うはずない。生まれてきたくなかったなんて思うはずない。だから、そうだ、愛する人との子供を作って、ぜひこんな素晴らしい世界に招待してあげたい! 斯くして今度は自分たちが愛し合うお父さんとお母さんになるのさ。ということで、経済や政治的な問題を除けば、結婚も出産も自然な選択なのだ。
逆だと思ってた。理由があって結婚や出産をするものと思ってた。だからなんで結婚するのか、なんで他人様をこんなクソみたいな世界に平気で参加させようと思えるのか、知りたかった。よく反出生主義の人が子供を産むことを、この世に「引きずり出す」「引きずり下ろす」「引きずり込む」と表現するのだけど、私はこれをぴったりの比喩だと思っている。すなわち、どうして他人様をこんな地獄へ平気で引きずり下ろせるのか知りたかった。そうじゃないんだね。理由がないから結婚や出産をするのだ。理由があるのは我々の方なのだ。私だって、良いものは人に広まってほしいもん。好きなソシャゲはみんなにプレイしてほしいし、良質な小説はみんなに読んでほしいし、おいしい料理はみんなに食べてほしい。実際に布教するか否かは好みの問題だから置いといて、楽しいことはみんなに経験してほしいって思うのは自然な欲求なんだろうね。よもや、それに参加して苦痛を味わうなどと微塵も頭をよぎるわけがない。きっとそういう思考なんだろうな。自然すぎて、根本的すぎて、思考として自覚することすらないのだろう。
残念ながら、ここからとっても悲しい自戒を導き出さなくちゃいけない。とっても悲しいけどとっっっっても大事な、人生の勝敗を決すると書いても過言ではないこと。精神が中学生である限り、子供は絶対に作っちゃ駄目だ。子供を持てば何かが変わる、なんて妄想だ。盲信と言っても良い。子供ができて変わるのは、時間配分と支出額だけである。中学生が自分の時間とお金を全部取り上げられて、平常心でいられると思うか? 万が一、億が一、私が中学生のまま子供を持ってしまったら、間違いなく愛着障害者の再生産だ。他人様を地獄へ引きずり下ろす行為に他ならない。その地獄は私が作ったものだ。被害者の再生産なんて、人生の敗北。寂しくて苦しくて消えたかった自分を必死に分析して、野獣から人間に育ててくれた自分自身の孤独な努力、に対する冒涜。孤独な野獣の生み直し。ドラマチックに書きすぎ? ブログだし良いよね。子供を持ちたい/持ちたくないの前に、おいお前、お前の一挙手一投足でこの子の人生が決まるのわかってんだろうな? 10年も何を考え続けてきたか自覚してんだろうな!?という徹底的な確認を完了する必要がある。健常者には必要のない工程だ。もしいつまで経っても完了できないなら、悲しくても現世での子宝は諦めるべきだ。これは価値ある決断だ。「私は誰のことも愛着障害者にしなかった」、なんて誇らしい功績だろう。
そうそう、出産以前に結婚の段階でも大事なことがある。これは他人様でなく自分自身を守るための訓戒。無自覚な愛着障害者を配偶者に選んではいけない。冒頭で周囲の当事者仲間の話をしたが、友人本人でなく、配偶者がそういう環境で育ったという例もいくつかある。どう考えても認知の歪みがあるのに配偶者自身が自覚していない。必然、何の精神的ケアも受けていないし、自分の苦しさの原因が外界にあると確信している。こういう手負いの獣は交際相手に牙を剥く。過去の私です。素人が奴らに知性を授けることはできない。または専門家としてライフワークにするレベルの覚悟がいる。自覚ある者同士なら幸せになる可能性もあるのかな……とうっすら夢想することもあるが、確実なのは、無自覚な愛着障害者と結婚するくらいなら一生独身でいる方が、希死念慮を覚えない日数が多そうだということ。まだまだ結婚出産して一人前という思想が残る世代の人間なので、こっちのパターンを想像するのはすごく怖いけど、怖がらなくて良いはずだ。きっとなーんにも怖くないよ。
次、2。健常者といえど、やっぱし歪んだ環境に放り込まれたらちょっとは負けちゃうのかもしれない。なんでこんなにまともな人達が集まってるのに、組織としてはダメダメなんだろう……っていう経験がたくさんある。そして、そういうダメダメ組織に入ってしまった心身健康な知人が、じわじわとストレスを蓄積して愚痴っぽい人間になってしまったのを見たり。愚痴の悪影響ってデカいよ。余所から取り込んできたストレスを家族や恋人や友人に移すという最低の味方討ち。いやいや、家族にストレス移すなよ。その愚痴全部、ストレス寄越してきた本人にまるっと返せよ。100倍にして返してやれ! でもそんなことを考えられなくなるくらい、「集団」が個人を視野狭窄に陥らせる圧力って強いみたいだ。認知が歪んでないことで守られるのは、あくまでも個人の幸福の範疇だけなのかも。「集団」を相手にしたら、個々人の健常者パワー💪じゃ勝てなくなっちゃうんだろう。
この発見は、かなり個人差あるだろうが、私にとっては正の要因になった。有り体に言ってしまえば、健常者をナメるようになった。奴ら、恐るるに足らん。精神衛生の管理について意識的に勉強と実践を繰り返してきた分、むしろ私の方が圧倒的に、なんというか、🤞バリア🤞に成功してる自信がある。嫌いな上司には嫌いなポーズ取るし、嫌な職場からはさっさと離れるし、管轄外の理不尽な頼まれ事は断る。敵だと感じたら考えるより先に身体が警戒してくれる。面と向かって躊躇なく反論できる。無差別攻撃じゃないから鼻摘みされることはないのは前提としてね。あえて動物に戻るような感じ。そう、余所で受けたストレスは寄越した本人に打ち返すのだ。健常者、たったこれだけのことができず家庭内に愚痴を持ち帰るのだなあ……。
知性なき動物の時代を経なかった人々には、なんか、ないんでしょうな。そういう発想が。そして当たり障りなく社会を回していこうという方針があるんでしょうな。私にはその辺の葛藤が一切ないので、この利点はでかいなと思っている。不思議とその方が味方も増えるし。みんな、結局思うところは同じだけど目立ちたくないだけなんじゃん。
最後の3。今後の目標ができた。自罰思考なく、手放しでその時々を楽しめるようになることだ。健常者の自己肯定感を愛着障害者が後天的に身につけるのは不可能と思ってる派なのだけど、条件反射的な自罰思考をやめるよう訓練することは可能かなと考えている。つまり、肯定まで行かなくても否定を阻止するくらいは、という作戦。だってなんか趣味のコミュニティの人達見てるとさ、自由なんだもん。あ、自由で良いんだ、と知った。知性ある人間である限り、自由が許されるのだ。最低限の道徳(って、今なら言える。健常者の言語を覚える前は難易度のすごく高い習慣付けだったけど)を守れば、一定の範囲内では何を言っても何をしても、受け入れてもらえる。責められることはない。嫌われることはない。むしろ個性を出した方が好かれることもある。結構みんな懐深いわ。大発見。馬鹿ばかしいだろう、こういうのも全く身についていないから、いちいち考えないと私にはわからんのだよ。
思考の過程が馬鹿ばかしいままに、その作戦内容も馬鹿ばかしい。聞いて嗤ってくれ。人と会います。すると自己否定が始まります。もうリアルタイムで始まります。自分、ここにいない方が良いんじゃない? 迷惑がられてるでしょ。嫌だ嫌だ、私もみんなと楽しみたい。帰りたくないよ。じゃあ何か面白い話をしたら? あっ、今のは失言だったかも。かもじゃない、失言だった。ほら失敗した。最悪だ。絶対嫌われた。黙っていよう。え、黙るの? 扱いに困られるでしょw そんなのいなくても一緒じゃん。ていうか、黙ってればその失敗が許されるとでも思ってんの? 保身しか考えてないよね。無理無理、人に好かれるとか無理。ああ怖いよ。失敗したくてしたんじゃないもん。だってあのときあの人があのタイミングで……。私が悪いんじゃない! いやお前が悪いんだよ。お前が完璧じゃなかったから。お前さえ完璧にできていれば。そしたら、その否定の思考を別の人間として扱う。私に悪口を言ってくる他人。そいつをきっぱり突き放す。わかったわかった! OK! うんざりなんだよね! あっち行ってくんない!? 邪魔だって。いらない。もう良いって! と。自罰・否定してくる思考や完璧主義は、しっかり向き合って紐解くべき幼少期の自分とはまた別の人格だと思ってるので、ガンガン拒絶する。三天結盾、私は拒絶する! すみませんうっすらしか知らないです。
これで自罰思考を、少なくとも条件反射的に一番初めに出てくるのが自罰思考であるという悪癖を治すことはできるような気がしている。実際、今まだ咄嗟に出てくる思考は「自罰」だけど、その後意識して「自罰vs拒絶」に変えることができるようになった。わあ牛歩😇 ここからそもそも「自罰vs拒絶」の状態で最初に出てくるようにし、徐々に「拒絶」が勝るようにし、最終的には「拒絶」の必要もなくなり何の反射も起こらない無の状態にしたいのだから、長い道のりだな……。先に寿命来るかな。良いんです。そもそも自罰思考を自覚できず死ぬまで生きづらさに溺れていた可能性を考えれば、こんなのは人生上がったも同然のボーナスステージなんです。
自罰思考それ自体が原因で人に避けられたりするしね。思うに、健常者には自罰思考持ちに対する逆嗅覚とでもいうべきものがあるのだろう。自罰思考持ちは透明人間なんだ。ごくごく自然に仲間外れにされがちだったもん。相手に悪気はないのに、ごく普通に人数に入れられてなかったり、ごく普通に移動で置いてかれたり。このコピペ、投稿者が自罰思考持ちかは知らないけど、現象だけ見たら自分かと思ったもん↓ 大好きなコピペ。
56 :運送業(東京都):2007/11/05(月) 01:06:34 ID:pH3aAdyj0
初出知ってる人いたら教えてください
わかるわかる
普段は友人として普通に接している連中相手でも、みんなで飯を食いに行く時とか
特に壁を感じる
俺が「そろそろ行こうぜ」って言っても、みんな「うんそうだねー」って感じで
全然動き出さないけど、他の誰かが「行くか」って言うと動き出す
俺がいなくても何事も無いかのように進むけど、他の誰かが欠けてると
そいつに連絡取ったり待ったりする
俺以外の奴が財布を取りに行ったり便所行ったりするとみんなそれを待つけど、
俺が靴ひも結んでたりしてても完全無視でみんな先に行く
どの食堂に行くかという話で俺の案は採用されない
食べ始めるのはみんなが席につくまで待つのが基本だけど、俺が最後のときは
みんな既に食べ始めている
食後、普通は食器を全員が片付けるのを待ってから食堂を出るのだが、
俺が最後のときはみんな先に帰り始めている
横に並んで歩いている時、俺の両隣りが徐々に迫ってきて遂には俺は後ろへ
追いやられて、みんなの後ろをトボトボ歩く羽目になる
誰かが購買に寄るとみんなついていくが、俺が行くときは誰もついてこない
これらの行為は作為的なものではなく、無意識なものだと思う
みんなが特に俺への接し方に差をつけてるのではなく、ただ俺の存在や影響力が
薄すぎるだけなのだろう
たぶん、俺だけこんな空気な扱いになってることにも気付いてない気がする
みんなのことは憎くないけど、自分の不甲斐無さが憎い
こういうことが続くと、一人が楽だなーって思う
ここからは笑い話だけど、とはいえ自罰思考の問題が解決したところで、もう一つ重大な課題が残っている。健常者の楽しみ方がよくわからない。どこで盛り上がるの? 何が面白いのか全くわからないときにみんなが大盛り上がりしているのを見て、とりあえず面白がっているフリをする、ということがときどきある。否、わりとしょっちゅうある。こっちの原因は何なのかわからん。話の合う友達とは発生しない現象なので、愛着障害関係ないかも。実は一般的なあるあるだったりするのかな? 人気のお笑い芸人でも好みじゃなければ笑えないみたいな話? 全然悩んでないから良いんだけどさ、でも知りたいなあ、それ何が面白いの!
健常者の天真爛漫さ、自由奔放さにはとても救われている。あ、それで良いんだ、といつも思わされている。彼らが世界を信頼する感覚を私が味わうことは不可能だし、彼らの自己肯定感の仕組みを知ったところでなにくそと夢だの希望だの持つ気にはなれないけど、そういう世界線が存在しているという事実にほっとするのだ。羨ましい、妬ましい、でも安心する。のほほんと生きやがってイージーモードめ、単に生まれガチャで当たり引いただけじゃねーか、それを努力と思うなよ。ううん、ありがとう。確かに私は不幸の磁石を持たされてしまったけれど、もしもこの磁石を手放すことができたなら、この世はそこまで悪いところじゃないのかもしれない。これに気づけたのはきみ達のお陰です。感謝と嫉妬でごちゃごちゃだ。
これからもごちゃごちゃのまま、健常者と交流して、いろんな感情が生まれては消えていくんだろう。ダリい人生だな……。でもね、でも、健常者にはこれからも健常であってほしい。そして私に愛と信頼の世界線を示し続けてください。きみ達は自己肯定感という最強の免疫であらゆる絶望から守られているので、きっと大丈夫です。良い世の中を作って、子孫代々幸せにしてあげてください。幸運な人々よ、輝かしき人生を!